
2026年7月12日(日)午後8時から放送されるNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第27回のタイトルは、「本能寺の変」です。
今回の放送では、織田信長を小栗旬さん、明智光秀を要潤さん、主人公の小一郎・豊臣秀長を仲野太賀さんが演じます。
公開されているあらすじでは、織田信長が徳川家康を安土城でもてなしていた際、食事に毒が盛られる事件が発生。饗応役を務めていた明智光秀と信長の関係が、決定的に悪化していく展開が描かれます。第27回は2026年7月12日放送予定で、正式なタイトルも「本能寺の変」と発表されています。
ドラマを見た後、次のような疑問を持つ人も多いのではないでしょうか。
- 「明智光秀は、本当に本能寺で信長を見届けたのか」
- 「なぜ信長だけでなく、長男の織田信忠も討たれたのか」
- 「光秀が鳥羽にいたという新説は本当なのか」
- 「光秀は信長と信忠の逃亡経路を封鎖していたのではないか」

この記事では、近年注目されている史料『乙夜之書物』を中心に、本能寺の変の新しい見方を紹介します。

- 本能寺の変とは?
- 『乙夜之書物』とは?
- 『乙夜之書物』には何と書かれているのか?
- 「光秀は鳥羽にいた」という情報源は誰なのか?
- 明智光秀は本能寺にいなかったのか?
- 本能寺の変の標的は信長だけだったのか?
- 織田信忠はどこにいたのか?
- なぜ信忠は京都から逃げなかったのか?
- 光秀は信長の逃亡経路を押さえるため鳥羽にいたのか?
- 本能寺と二条御所を同時に攻撃する計画だったのか?
- 光秀が鳥羽で待機していた理由
- 「敵は本能寺にあり」は本当に言ったのか?
- 光秀が信長を討った動機は何だったのか?
- 『乙夜之書物』は信用できる史料なのか?
- ドラマを見るときに注目したいポイント
- 本能寺の変の新しい見方
- まとめ|光秀は信長と信忠を逃さないために鳥羽にいたのか
- 参考文献・参考資料
本能寺の変とは?
本能寺の変は、天正10年6月2日、現在の暦で1582年6月21日未明に起きた政変です。
中国地方へ援軍に向かう予定だった明智光秀が進路を変更し、京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃しました。
信長は少数の近習とともに抵抗しましたが、最後は本能寺の中で自害したとされています。
一般的なドラマや映画では、明智光秀が本能寺の近くで軍勢を指揮し、燃え上がる本能寺を見つめる姿が描かれることがあります。
しかし、近年注目された史料には、これまでのイメージを覆すような記述が残されていました。
それが『乙夜之書物』です。
『乙夜之書物』とは?

『乙夜之書物』は、「いつやのかきもの」と読みます。
江戸時代前期の加賀藩士で兵学者だった関屋政春が、戦国時代の出来事や武将に関する話を聞き集めて記録した書物です。
寛文9年、1669年から寛文11年ごろにかけて書かれた3巻3冊の書物で、現在は金沢市立玉川図書館近世史料館の加越能文庫に所蔵されています。
本能寺の変が起きた1582年から、約87年後に成立した史料です。
そのため、事件当日に書かれた一次史料ではありません。
ただし、『乙夜之書物』には、本能寺襲撃に参加したとされる明智方の人物「斎藤利宗」に由来する証言が含まれています。
敗者となった明智方の証言は残りにくいため、研究上、非常に貴重な記録として注目されているのです。
『乙夜之書物』には何と書かれているのか?
『乙夜之書物』には、本能寺襲撃について、次のような趣旨の記述があります。
本能寺には明智弥平次と斎藤内蔵助が率いる二千余騎を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた。
明智弥平次は、一般に明智秀満を指すと考えられます。
斎藤内蔵助は、光秀の重臣である斎藤利三です。
つまり、この記述が正しければ、本能寺を直接襲撃したのは、明智秀満や斎藤利三らが率いる部隊でした。
そして、総大将である明智光秀本人は、本能寺の現場ではなく、京都南部の鳥羽に待機していたことになります。
『乙夜之書物』を研究した萩原大輔氏の著書『異聞 本能寺の変―『乙夜之書物』が記す光秀の乱』でも、「信長襲撃のとき、光秀は本能寺ではなく鳥羽にいた」という記述が重要な論点として取り上げられています。
「光秀は鳥羽にいた」という情報源は誰なのか?

『乙夜之書物』の記述で特に重要なのが、情報源です。
本能寺の変に関する情報は、主に次の人物の証言に由来すると考えられています。
斎藤利宗

斎藤利宗は、光秀の重臣・斎藤利三の息子です。
利宗自身も本能寺襲撃部隊に参加し、戦いの最前線にいたとされます。
つまり、「光秀は鳥羽に控えていた」という話は、後世の作家が想像して作ったものではなく、襲撃に参加した明智方の関係者に由来する可能性があるのです。
進士作左衛門
もう一人の情報源とされるのが、光秀方の武士とみられる進士作左衛門です。
『乙夜之書物』を紹介した書評では、本能寺襲撃に参加した斎藤利宗と進士作左衛門の二人が、光秀は後方の鳥羽に控えていたと語った内容が伝えられていると指摘されています。
ただし、関屋政春が二人から直接聞いたわけではありません。
証言者から別の人物へ伝わり、その話を関屋政春が書き留めた「又聞き」の記録です。
したがって、当事者系の貴重な証言ではあるものの、内容をそのまま確定的な事実とすることはできません。
明智光秀は本能寺にいなかったのか?

現時点では、
明智光秀が本能寺にいなかったと確定した
とまでは言えません。
しかし、
光秀が本能寺襲撃部隊より後方にいて、全体を指揮していた可能性がある
とは十分に考えられます。
『乙夜之書物』だけでなく、秀吉側の記録である『惟任退治記』にも、光秀が進軍の「途中に控えていた」と読める記述があります。
『乙夜之書物』では待機場所が「鳥羽」と具体的に書かれ、『惟任退治記』では場所を明示せず、「途中に控えた」と表現されています。
二つの史料がまったく同じ場面を記録したものかは分かりません。
それでも、異なる系統の記録に、光秀が本能寺攻撃の先頭に立っていなかった可能性を示す記述がある点は注目されます。

光秀は自ら刀を振るう襲撃隊長ではなく、複数の部隊を動かす総司令官だったのかもしれません。
本能寺の変の標的は信長だけだったのか?

本能寺の変を理解するうえで重要なのが、織田信長の長男・織田信忠の存在です。
信忠は単なる信長の息子ではありません。
すでに信長から織田家の家督を譲られ、織田軍団の後継者として活動していました。
信長だけを討っても、信忠が生き残れば、各地の織田家臣をまとめて反撃する可能性があります。
そのため、光秀が織田政権を倒そうとしたのであれば、信長だけでなく、後継者である信忠も排除する必要がありました。
本能寺の変は、信長一人を狙った暗殺というより、信長と信忠を同時に失わせ、織田政権の指揮系統を崩壊させる政変だったと見ることができます。
織田信忠はどこにいたのか?
本能寺の変が起きたとき、織田信忠は本能寺から比較的近い妙覚寺に宿泊していました。
信忠は異変を知ると、父・信長と合流するために本能寺へ向かおうとします。
しかし、村井貞勝らから、
「本能寺はすでに落ちた」
「明智軍は次に信忠を攻撃するはずだ」
「防御に適した二条御所に入るべきだ」
と進言され、二条御所へ移りました。
『信長公記』には、信忠に京都から退くよう勧めた者がいた一方、信忠自身は、このような謀反では逃げ切れないだろうと判断し、二条御所で戦う道を選んだという趣旨の記述があります。
その後、二条御所は明智軍に包囲され、信忠は戦いの末に自害しました。
なぜ信忠は京都から逃げなかったのか?
ドラマを見た視聴者が抱きやすい疑問の一つが、
信忠には逃げる時間があったのではないか
という点です。
信忠は本能寺にいたわけではなく、妙覚寺にいました。
本能寺襲撃を知った後、二条御所へ移動する時間もありました。
そのため、すぐ京都を脱出していれば助かったのではないかとも考えられます。
しかし、『信長公記』に記された信忠の言葉からは、本人が「明智軍の包囲から逃れるのは難しい」と判断していたことがうかがえます。
これは、明智軍が本能寺だけを攻撃していたのではなく、京都市中の道路や出口を押さえ、信長・信忠の逃亡を警戒していた可能性を考える手掛かりになります。

ただし、「京都のすべての出口が完全に封鎖されていた」と明記した確実な史料があるわけではありません。
信忠の性格や武将としての名誉、情報不足、明智軍の配置など、複数の要因が重なったと考えるべきでしょう。
光秀は信長の逃亡経路を押さえるため鳥羽にいたのか?

ここからは、史料に書かれた事実をもとにした考察です。
『乙夜之書物』に記された鳥羽は、京都の南側に位置します。
京都から伏見、淀、大坂方面へ向かう交通路を警戒できる場所です。
当時、大坂方面には、四国攻めの準備をしていた織田信孝や丹羽長秀らの軍勢がいました。
仮に信長が本能寺から脱出し、大坂方面の軍勢と合流すれば、光秀にとって深刻な事態になります。
そのため光秀が鳥羽にいたのは、
- 信長が京都南方へ逃げるのを防ぐ
- 大坂方面から来る援軍を警戒する
- 本能寺襲撃の結果を待つ
- 次の標的である信忠へ本隊を向かわせる
という複数の目的があった可能性があります。
この見方に立つと、光秀が本能寺にいなかったことは不自然ではありません。
むしろ総大将として、信長を確実に逃さず、その後すぐに信忠を攻撃するための位置にいたと説明できます。
本能寺と二条御所を同時に攻撃する計画だったのか?
信長と信忠の二人が標的だったのなら、最初から二つの部隊に分かれて同時に攻撃すればよかったのではないか、という疑問も生まれます。
実際の作戦については、史料が不足しているため断定できません。
考えられるのは、次のような段階的な作戦です。
第1段階・本能寺を急襲する
明智秀満、斎藤利三らの部隊が、信長のいる本能寺を襲撃します。
信長は少数の供回りしか連れておらず、まず信長を確実に討つことが最優先だったと考えられます。
第2段階・逃亡経路を警戒する
光秀の本隊や別働隊が、京都南方や主要道路を監視します。
本能寺から信長が脱出した場合や、信忠が京都を離れた場合に備えた可能性があります。
第3段階・信忠を攻撃する
本能寺襲撃後、明智軍は信忠が移った二条御所を包囲します。
信長に続いて、織田家の後継者である信忠も討つことで、織田政権の中枢を一度に失わせます。
これは完全な「二か所同時攻撃」というより、
信長を最優先で急襲し、退路を警戒しながら、続いて信忠を討つ段階的な二重標的作戦
だった可能性があります。
光秀が鳥羽で待機していた理由

光秀の鳥羽待機については、次の四つの意味が考えられます。
1.信長の大坂方面への逃亡を防ぐため
信長が本能寺から脱出した場合、大坂方面にいる織田信孝・丹羽長秀らの軍勢との合流を目指す可能性があります。
鳥羽は、その南方への動きを警戒する位置として意味があります。
2.信忠の所在を確認するため
本能寺襲撃が始まった時点で、信忠がどこへ移動するかは確定していなかった可能性があります。
信忠の所在が判明するまで、本隊を一か所に集中投入せず、動かせる状態で待機したとも考えられます。
3.二条御所攻撃に備えるため
本能寺襲撃部隊とは別に本隊を温存しておけば、信長を討った後、すぐ信忠への攻撃に移れます。
実際に『乙夜之書物』を研究した書籍も、本能寺襲撃に続いて、信忠が立て籠もった二条御所攻めを重要なテーマとして扱っています。
4.京都全体を制圧するため
本能寺の変は、寺一か所を襲うだけの事件ではありません。
御所、京都の主要道路、織田方の宿所、城や政治拠点など、京都全体の動きを把握する必要があります。
光秀本人が本能寺の狭い戦場へ入るより、後方から複数の部隊を指揮する方が、軍事的には合理的だった可能性があります。
「敵は本能寺にあり」は本当に言ったのか?
本能寺の変を描くドラマでは、光秀が軍勢に向かって、
敵は本能寺にあり
と叫ぶ場面がよく登場します。
しかし、この言葉を光秀が実際に発したことを確認できる同時代史料はありません。
後世に作られた物語や軍記物によって広まった表現と考えられています。
ただし、言葉そのものが創作だったとしても、光秀が亀山城から京都へ進軍し、途中で信長を討つ意図を家臣たちに伝えた可能性まで否定されるわけではありません。
ドラマでは、史料に残る事実だけでなく、登場人物の心情を分かりやすく伝えるための演出が加えられます。
史実とドラマの違いを比べることも、大河ドラマを見る楽しみの一つです。
光秀が信長を討った動機は何だったのか?
本能寺の変の動機については、現在も決定的な答えが出ていません。
代表的な説には、
- 信長から受けた仕打ちへの怨恨説
- 光秀自身が天下を取ろうとした野望説
- 信長の四国政策変更をめぐる対立説
- 朝廷や将軍・足利義昭との関係を重視する説
- 織田政権内部の政治的対立説
などがあります。
ただし、一つの出来事だけを原因として説明するのは難しいと考えられます。
信長と光秀の個人的な関係だけでなく、四国政策、織田政権内での立場、将来への不安、政治的判断などが複雑に重なった可能性があります。
ドラマでは人物同士の感情的な対立が強調されることがありますが、史実を考える際には、当時の政治・軍事状況も合わせて見る必要があります。
『乙夜之書物』は信用できる史料なのか?
『乙夜之書物』の評価には、長所と注意点があります。
評価できる点
- 明智方の関係者に由来する証言が含まれる
- 本能寺襲撃に参加した人物の名前が情報源として挙げられる
- 光秀の位置を「鳥羽」と具体的に記している
- 敗者側の証言として貴重である
- 本能寺だけでなく、二条御所攻めや山崎の戦いまで記録している
注意すべき点
- 本能寺の変から約87年後に書かれた
- 著者が当事者から直接聞いた記録ではない
- 証言が複数の人物を経由している
- 記憶違いや伝達時の変化が起きた可能性がある
- 他の史料との照合が必要である
したがって、『乙夜之書物』に書かれているからといって、すべてを確定した事実とすることはできません。
一方で、事件から時間がたっているという理由だけで、すべてを否定するのも適切ではありません。
本能寺の変については確実な史料が限られているため、当事者に近い人物の証言を含む記録は、慎重に検討する価値があります。八木書店も、同史料を本能寺の変を再検討するうえで重要な内容を持つ史料として紹介しています。
ドラマを見るときに注目したいポイント

「豊臣兄弟!」の本能寺の変を見る際は、次の点に注目すると、より深く楽しめます。
光秀はどこから本能寺襲撃を指揮しているか
ドラマでは光秀本人が本能寺の近くにいるのか、それとも後方で指揮するのかに注目です。
『乙夜之書物』の鳥羽待機説が、演出に取り入れられる可能性もあります。
織田信忠がどのように描かれるか
本能寺の変は、信長の死ばかりが注目されがちです。
しかし、織田政権にとっては、後継者である信忠が同じ日に亡くなったことも極めて重大でした。
信忠の行動や二条御所の戦いが、どこまで描かれるかも重要です。
光秀軍の役割分担
本能寺を襲う部隊、京都市中を押さえる部隊、光秀の本隊がどのように描き分けられるかにも注目です。
光秀を個人的な怒りで突進する人物として描くのか、冷静に複数部隊を動かす総司令官として描くのかによって、事件の印象は大きく変わります。
豊臣兄弟は本能寺の変をどう知るのか
「豊臣兄弟!」の主人公は、小一郎・豊臣秀長です。
本能寺の変そのものだけでなく、備中高松城周辺にいた秀吉・秀長兄弟が、信長の死をどのように知り、どう判断するのかがドラマの重要な見どころになります。
本能寺の変は、信長の最期であると同時に、秀吉・秀長兄弟が天下へ向かう転換点でもあります。
本能寺の変の新しい見方

これまでの本能寺の変は、
信長に恨みを持った光秀が本能寺を急襲した
という、比較的単純な物語として描かれることが多くありました。
しかし、『乙夜之書物』の記述を踏まえると、別の姿が見えてきます。
光秀は自ら本能寺に突入したのではなく、重臣たちに襲撃を任せ、自身は鳥羽で待機していた。
その理由は、信長の逃亡を防ぎ、後継者の信忠を討ち、京都全体を制圧するためだったのかもしれません。
この見方が正しければ、本能寺の変は突発的な復讐ではなく、
信長と信忠という二人の指導者を同時に排除するため、複数の部隊が役割を分担した計画的な軍事クーデター
だった可能性があります。
もちろん、これはまだ確定した事実ではありません。
しかし、光秀が鳥羽にいたという証言は、私たちが抱いてきた「燃える本能寺を見つめる光秀」というイメージを見直す重要な手掛かりです。
まとめ|光秀は信長と信忠を逃さないために鳥羽にいたのか

『乙夜之書物』には、明智秀満や斎藤利三ら約二千の部隊が本能寺へ向かい、明智光秀本人は鳥羽に控えていたという趣旨の記述があります。
その情報源は、本能寺襲撃に参加したとされる斎藤利宗や進士作左衛門など、明智方の関係者に由来すると考えられています。
光秀が鳥羽にいた理由は、史料には明記されていません。
しかし、信長が大坂方面へ逃げるのを防ぐこと、信忠の所在を確認すること、本能寺襲撃後に二条御所へ向かうことなどを考えれば、鳥羽待機には軍事的な合理性があります。
本能寺の変の標的は、信長一人ではありませんでした。
織田家の後継者である信忠も同日に討たれています。
そのため光秀は、信長と信忠の両方を逃さないように部隊を配置し、自身はどちらにも対応できる場所で待機していたのではないでしょうか。
これはあくまで史料から導かれる一つの解釈です。
それでも、光秀を感情的に主君へ刃を向けた人物ではなく、京都全体を見ながら軍勢を動かした総司令官として捉えると、本能寺の変の姿は大きく変わります。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第27回「本能寺の変」を見た後は、ぜひ次の点を考えてみてください。
明智光秀は、本当に燃える本能寺の前にいたのでしょうか。
それとも鳥羽に本隊を置き、信長と信忠の逃亡経路を封じながら、織田政権を一夜で崩壊させる作戦を指揮していたのでしょうか。
『乙夜之書物』が伝える新たな証言は、400年以上たった現在も、本能寺の変について新しい問いを投げかけています。
参考文献・参考資料
- 萩原大輔『異聞 本能寺の変―『乙夜之書物』が記す光秀の乱』八木書店、2022年
- 金子拓『織田信長という歴史―「信長記」の彼方へ』勉誠出版
- 太田牛一『信長公記』
- 大村由己『惟任退治記』
- 金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵『乙夜之書物』


