豊臣秀長の側室・光秀尼の波乱万丈な生涯!尼僧から側室へ、そして再び仏門へ

豊臣秀長の側室・光秀尼の波乱万丈な生涯 戦国の雑学
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お春
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戦国時代には、政略結婚や数奇な運命に翻弄された女性たちが数多く存在します。

その中でも、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長の側室となった光秀尼(こうしゅうに)の生涯は、一際ドラマチックです。

今回は、一度は仏門に入りながらも秀長に見初められ、波乱の人生を送った光秀尼と秀長の関係について詳しく解説します!

光秀尼とはどんな人物?

光秀尼(別名:興俊尼、お藤)は、大和国(現在の奈良県)の国人・秋篠氏の娘として天文21年(1552年)に生まれました。秋篠氏は興福寺一乗院方の衆徒であり、筒井氏の被官という家柄でした。

彼女の人生を語る上で欠かせないのが、後に大和郡山城主となる豊臣秀長との出会いです。

運命の出会い:寺を訪れた秀長に見初められる

『奈良名所八重桜』(延宝6年・1678年)という史料によると、光秀尼と秀長の出会いは非常にドラマチックに描かれています。

光秀尼はもともと、法華寺の比丘尼(尼僧)でした。ある日、法華寺を訪れた秀長が彼女を見初め、城へと連れ帰って一夜を共にし、その後寺に帰されたというのです。

しかし、このロマンチックな逸話には異論もあります。歴史学者の柴裕之氏は、別の史料『庁中漫録』の記述を根拠に、秀長と出会った時点では彼女はまだ出家していなかったと指摘しています。どちらが真実かは歴史のロマンですが、二人の出会いが彼女の運命を大きく変えたことは間違いありません。

妾から「別妻」への昇格

不犯の戒律を破った(あるいは未婚のまま身ごもった)光秀尼は、元の寺や家には戻れず、身を寄せた先で秀長との間に娘(おきく)を出産します。

事情を知った秀長は、天正15年(1587年)または16年(1588年)頃、光秀尼と娘を大和郡山城へと迎え入れました。城に入った彼女は還俗(出家者が俗人に戻ること)し、「お藤」と呼ばれるようになります。

当時の史料『多聞院日記』を読むと、彼女の立場が徐々に変化していく様子がわかります。

•当初:「大納言殿ソハムスメ」(妾・そば女の扱い)

•その後:「大納言ノ御内」(別妻・正式な側室の扱い)

秀長には慈雲院という正室がいましたが、光秀尼は娘を通じて秀長家の中枢に深く関わり、正式な側室としての地位を確立していきました。秀長の誠実な人柄がうかがえるエピソードでもあります。

秀長の死と、再びの出家

天正19年(1591年)、秀長がこの世を去ります。大黒柱を失った光秀尼は、再び出家して比丘尼となり、縁者が院主を務める弘文院(後の興福院)へと入寺しました。

しかし、豊臣家との縁が完全に切れたわけではありませんでした。文禄4年(1595年)には、「秋篠後室」の名で豊臣秀吉から大和国新堂村に200石の知行地を与えられています。これは弘文院の寺領としての寄進とも言われており、秀吉も弟の側室を手厚く保護していたことがわかります。

晩年:興福院の院主として

光秀尼(こうしゅうに)の生涯

元和6年(1620年)、光秀尼は弘文院の院主となりました。そして元和8年(1622年または1623年)、71歳の生涯を閉じます。現在も興福院には「摂取院藤誉光秀比丘尼」の法名が記された位牌が祀られています。

光秀尼の娘について

光秀尼と豊臣秀長の間には娘が生まれましたが、その娘が「誰と結婚したか」をめぐって研究者の間で複数の説が存在します。

登場する娘は2人?

まず前提として、光秀尼の娘には2人の人物が関係しています。

人物別名・称号生年
秀長の娘A(名前不明)羽柴秀保の妻、「御うへさま」天正15年(1587年)頃
おきく大善院殿、「御きくさま」天正16年(1588年)

史料『駒井日記』には、文禄3年(1594年)3月の祝言の場面で、「御うへさま(秀保の妻)」と「おきく」が別々に贈り物を受け取っていると記されています。このことから、秀保の妻とおきくは別人と考えられています。

2つの主要な説

説①:おきく=毛利秀元の妻(『奈良名所八重桜』の記述)

『奈良名所八重桜』は、光秀尼が生んだ娘をおきく(大善院殿)とし、彼女が毛利秀元に嫁いだとしています。また、おきくは初め羽柴秀俊(後の小早川秀秋)と婚約したものの、秀俊が小早川隆景の養子となって毛利輝元の養女と結婚したため婚約が解消され、その後文禄4年(1595年)2月に秀吉の養女として毛利秀元へ嫁いだとされています。

説②:秀保の妻=光秀尼の娘(黒田基樹・柴裕之らの説)

一方、黒田基樹・柴裕之らの研究者は、羽柴秀保の妻こそが光秀尼の娘であるとします。根拠は『多聞院日記』の記述で、秀保の妻の母が「秋篠ノ沙弥」(秋篠氏の娘=光秀尼)であることが読み取れるためです。

生年をめぐる議論

秀保の妻の生年については、『多聞院日記』天正19年(1591年)1月条に「大納言殿ムスメ四、五才歟(か)」とある記述が手がかりです。

  • 黒田基樹:天正15年(1587年)または16年(1588年)の生まれと推定。文禄3年の婚儀は彼女が社会的に認知される8歳を迎えたことを機に行われた正式な婚儀であり、天正15年生まれの可能性が高いとする。
  • 柴裕之:天正15年(1587年)以前の生まれとする。

なお、おきく(大善院殿)は天正16年(1588年)生まれであり、黒田説に従えば秀保の妻とおきくは1歳差の姉妹ということになります。

まとめ

論点内容
光秀尼の娘は何人か少なくとも2人(秀保の妻・おきく)の可能性が高い
おきくは誰と結婚したか毛利秀元(大善院殿として)
秀保の妻は誰の娘か光秀尼の娘とする説が有力(黒田・柴説)
秀保の妻の生年天正15年(1587年)頃が有力(黒田説)

史料によって記述が異なるため断定はできませんが、現在の研究では光秀尼には少なくとも2人の娘がおり、一人が秀保の妻、もう一人がおきく(毛利秀元の妻)であったとする見方が有力です。

まとめ

お春
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尼僧として仏道に生きるはずが、天下人の弟に見初められて側室となり、夫の死後は再び仏門に帰って寺の院主として生涯を終える―。

光秀尼の人生は、戦国時代という激動の時代にあって、自らの運命を受け入れ、力強く生き抜いた女性の姿を私たちに伝えてくれます。奈良を訪れる機会があれば、彼女が晩年を過ごした興福院に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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