
「馬場信春ってどんな武将だったんだろう?」

武田信玄の名を知る方なら、一度は耳にしたことがあるかもしれません。武田四天王の一人として数えられ、「不死身の鬼美濃」という恐ろしくもかっこいい異名で呼ばれた伝説の武将、それが馬場信春です。
40年以上もの戦歴でかすり傷ひとつ負わなかった無傷の記録、主君の間違いさえ堂々と諫める真っ直ぐな性格、そして最期まで武田家への忠義を貫いた生き様——。馬場信春の逸話には、戦国時代を生きた武士の理想像が詰まっています。
この記事では、馬場信春の逸話を10個厳選してご紹介します。読み進めるうちに、この武将がなぜ敵味方から尊敬され、後世まで語り継がれているのかが分かるはずです。
山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊といった他の武田四天王にも興味が湧いてくるかもしれませんね。それでは、不死身の鬼美濃・馬場信春の魅力的な人生を一緒に見ていきましょう!
馬場信春とは?「不死身の鬼美濃」の基本プロフィール

生涯・経歴の概要(1515-1575)
馬場信春(ばば のぶはる)は、永正12年(1515年)に甲斐国(現在の山梨県)で生まれました。本名は教来石景政(きょうらいせき かげまさ)といい、のちに武田信玄から馬場氏の名跡を継ぐことを許され、馬場信房と改名、後にさらに改名して馬場信春と名乗るようになります。
信春の最大の特徴は、武田三代に仕えた忠臣であることです。武田信虎、武田信玄、武田勝頼という三代の当主に仕え、それぞれの時代で重要な役割を果たしました。17歳で初陣を飾ってから、60歳で長篠の戦いに散るまで、実に43年間もの長きにわたって武田家に尽くし続けたのです。
信春は武田四天王(山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊、馬場信春)の一人に数えられるだけでなく、武田四宿老や武田二十四将にも名を連ねています。これは単なる武勇だけでなく、政治力や統率力も兼ね備えていた証拠です。
馬場信春の逸話を語る上で欠かせないのが、その経歴の幅広さです。彼は前線で敵を打ち破る猛将であると同時に、築城術に優れた技術者でもあり、さらには軍事作法を革新した戦略家でもありました。まさに文武両道を体現した武将だったのです。
「鬼美濃」と呼ばれた理由
馬場信春の異名「鬼美濃(おににみの)」は、いったいどこから来たのでしょうか?
まず「美濃」の部分ですが、これは信春が朝廷から与えられた「美濃守(みののかみ)」という官位に由来します。当時の武将は官位で呼ばれることが多く、「美濃守殿」と呼ばれていたものが、いつしか「美濃」と略されるようになりました。
問題は「鬼」の部分です。なぜ鬼と呼ばれたのか——それは信春の圧倒的な戦場での強さと恐ろしさを表現するためでした。敵からすれば、馬場信春が現れるだけで戦意が削がれるほどの恐怖の存在だったのです。
さらに驚くべきは、信春が40年以上の戦歴で一度も傷を負わなかったという伝説です。70回以上の合戦に参加しながら、かすり傷ひとつ負わなかったと言われています。これは単なる幸運ではなく、卓越した戦略眼と判断力があったからこそ成し遂げられた記録でした。
「不死身の鬼美濃」——この異名は、敵味方問わず信春を恐れ、同時に尊敬していたことの証です。馬場信春の逸話には、この異名にふさわしいエピソードが数多く残されています。
【逸話1】17歳の初陣で才能開花!諏訪氏との戦い
武田信虎の親衛隊に抜擢される
馬場信春の逸話の始まりは、彼がまだ教来石景政と名乗っていた17歳の頃にさかのぼります。
天文元年(1532年)、信虎率いる武田軍は諏訪氏との戦いに臨みました。この戦いで初陣を飾った若き信春は、見事な武功を立てます。敵兵を次々と討ち取り、その勇猛果敢な戦いぶりは武田信虎の目に留まりました。
戦後、信虎は信春を自らの親衛隊に抜擢します。これは異例の出世でした。当時の武田家は完全な実力主義で、家柄だけでは重要なポジションにつけません。17歳の若者が親衛隊に選ばれたということは、それだけ信春の才能が際立っていたということです。
この初陣での活躍が、馬場信春の逸話の第一歩となりました。彼はこの時すでに、戦場での駆け引きや敵の動きを読む才能を発揮していたのです。
武田信虎に仕えた数年間で、信春は多くの実戦経験を積みます。そしてその経験が、後に武田信玄の下で花開くことになるのです。馬場信春の逸話を語る上で、この17歳の初陣は決して見逃せないエピソードと言えるでしょう。
【逸話2】二人の名将から学んだ兵法の奥義

小幡虎盛から戦場の駆け引きを学ぶ
馬場信春の逸話で特筆すべきは、彼が師匠に恵まれていたことです。
信春の最初の師は、武田家の重臣・小幡虎盛(おばた とらもり)でした。虎盛は「黒御幣(くろごへい)」という黒い旗印を掲げることで知られる猛将で、戦場での駆け引きに長けた名将でした。
信春は虎盛から戦場での心構えや敵の動きを読む技術を学びます。特に印象的なのは、虎盛が信春に語ったとされる名言です。
「戦は勝つことよりも、負けない戦をすることが大切だ」
この教えは信春の心に深く刻まれ、後の「無傷の記録」につながる慎重な戦略眼の基礎となりました。
虎盛が亡くなる際、彼は自らの「黒御幣」の旗印を信春に譲ったと言われています。これは単なる旗ではなく、虎盛の戦術思想そのものを受け継ぐという意味がありました。馬場信春の逸話には、この旗印を掲げて数々の勝利を収めた場面が何度も登場します。
山本勘助から築城術を伝授される
もう一人の師は、あの有名な軍師・山本勘助です(別記事で詳しく解説)。

お春は、NHKの大河ドラマで「山本勘助」を知りました。主役が大好きな俳優「内野聖陽」だったのも良かったです。

大河ドラマ第46作。戦国時代、甲斐(かい)の武田信玄に仕えた軍師・山本勘助の夢と野望に満ちた波乱の生涯を中心に、戦国の世を生き抜いた人々の姿を描いた、躍動感あふれる人間ドラマです。
勘助は戦略家として知られていますが、実は築城術の達人でもありました。城の配置、堀の深さ、石垣の角度——これらすべてに深い意味があり、勘助はそれを「城取(しろどり)」の奥義として信春に伝授したのです。
信春は勘助から学んだ築城術を実践に移します。彼が手がけた城には以下のようなものがあります。
| 城名 | 所在地 | 特徴 |
|---|---|---|
| 深志城 | 信濃国 | 後の松本城の原型。防御に優れた縄張り |
| 牧之島城 | 信濃国 | 川を天然の堀として利用した設計 |
| 海津城改修 | 信濃国 | 上杉軍への備えとして強化 |
これらの城は単なる防御拠点ではなく、周辺地域の統治拠点としても機能しました。馬場信春の逸話には、彼が築いた城が何度も敵の攻撃を退けたというエピソードが残されています。
二人の名将から学んだ兵法の奥義——これが馬場信春を「不死身の鬼美濃」へと成長させる礎となったのです。
【逸話3】武田信玄が認めた器量人「一国の主になれる」
馬場家再興と侍大将への昇格
馬場信春の逸話の中でも特に重要なのが、武田信玄による馬場家の名跡継承です。
信春は元々、教来石氏という家の出身でした。しかし、彼の才能と功績を高く評価した信玄は、断絶していた名門・馬場氏の名跡を信春に継がせることを決めます。これは当時としては最高の栄誉でした。
さらに信玄は、信春を侍大将に昇格させます。侍大将とは、数十騎から数百騎の部隊を率いる指揮官のことです。信春に与えられた騎馬武者の数は、最初は50騎でしたが、後に120騎まで加増されました。
この加増は、信春の軍事的才能だけでなく、統率力や人望の厚さを示しています。騎馬武者120騎ということは、その配下にいる足軽や荷駄隊を含めると、数百人から千人規模の軍団を率いていたことになります。
信玄は信春について、こう評したと伝えられています。
「馬場信春は一国の主になれる器量の持ち主だ」
これは最大級の賛辞です。武田信玄ほどの名将が「一国の主になれる」と評価したということは、信春が単なる武将ではなく、国を統治できるだけの政治力も持っていたということを意味します。
信濃侵攻での総軍事指揮権
信玄が信春に寄せた信頼を最もよく表すのが、信濃侵攻での総軍事指揮権の委任です。
武田信玄は信濃国(現在の長野県)を平定するため、何度も遠征を行いました。しかし、信玄自身が甲斐にいなければならない時もあります。そんな時、信玄が軍の指揮を任せたのが馬場信春だったのです。
信春は信玄の代理として、数千から一万の軍勢を指揮しました。敵城の攻略、地元豪族との交渉、兵糧の確保——これらすべてを任されたのです。馬場信春の逸話には、彼が単独で敵城を落とし、信濃の地を次々と武田領に組み込んでいった様子が記録されています。
信玄が信春に全権を委任したということは、それだけ信春の判断力を信頼していたということです。実際、信春は一度も信玄の期待を裏切ることなく、着実に成果を上げていきました。
この信頼関係こそが、武田家を戦国最強の一角へと押し上げた原動力だったのです。
【逸話4】川中島の戦いでの慎重な作戦提案

「キツツキ戦法」への関与
馬場信春の逸話で外せないのが、川中島の戦いでの活躍です。
永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは、武田信玄と上杉謙信が直接対決した歴史的な合戦です。この戦いで武田軍が採用したのが、有名な「キツツキ戦法(啄木鳥戦法)」でした。
この作戦は、軍を二手に分け、一方が敵の背後から攻撃して追い出し、もう一方が待ち構えて挟み撃ちにするというものです。作戦立案には山本勘助が中心的な役割を果たしましたが、馬場信春もこの作戦に深く関与していたと言われています。
信春の提案は**「正面突破を避ける」**という点で一貫していました。上杉軍は精強で知られており、正面からぶつかれば大きな犠牲が出ることは明白でした。信春の戦略眼は、常に「いかに味方の損害を抑えながら勝利するか」に向けられていたのです。
しかし、この作戦は上杉謙信に見破られてしまいます。謙信は夜のうちに陣を動かし、武田本隊の前に姿を現しました。これにより、武田軍は予想外の苦戦を強いられることになります。
濃霧の中での判断ミスと挽回
川中島の戦いで、馬場信春は別働隊として配置されていました。本来なら上杉軍の背後から攻撃するはずだったのですが、謙信に作戦を見破られたため、予定が狂ってしまいます。
濃霧の中、武田本隊が上杉軍と激戦を繰り広げているという報告を受けた信春は、すぐに軍を反転させます。この判断の速さが、武田軍を壊滅から救いました。
信春率いる別働隊が戦場に到着すると、武田本隊は窮地に陥っていました。弟の武田信繁や軍師・山本勘助が討ち死にするほどの激戦でした。
信春は即座に上杉軍の側面を突くことで、謙信の攻撃を鈍らせます。この挽回の功績により、武田軍はなんとか壊滅を免れることができたのです。
馬場信春の逸話において、この川中島の戦いは「慎重な作戦提案」と「危機における迅速な判断」という彼の二つの特質を示す重要なエピソードです。
結果として川中島の戦いは痛み分けに終わりましたが、信春の活躍がなければ武田軍は壊滅していたかもしれません。信玄がその後も信春を重用し続けたのは、この戦いでの功績が大きかったからだと言われています。
【逸話5】今川館炎上事件!財宝を火中に投じた漢気
信玄の財宝略奪命令を制止
馬場信春の逸話の中でも、彼の人柄と信念を最もよく表すのがこのエピソードです。
永禄11年(1568年)、武田信玄は駿河国(現在の静岡県)に侵攻し、同盟関係にあった今川氏を攻撃します。この時、今川館(今川氏の居城)が炎上し、多くの財宝が火の中に残されていました。
信玄は配下の武将たちに、「財宝を持ち出せ」と命じます。戦国時代において、敵の財宝を奪うことは当然のことでした。戦の報酬として、武将たちは戦利品を期待していたのです。
しかし、ここで馬場信春が進み出て、信玄を制止します。
「お待ちください。今川氏は長年の同盟相手です。その館から財宝を持ち出せば、『武田の者共は盗人だ』と天下の笑い者になります。こんな恥ずべき行為は、武田の名を汚すだけです」
信春は炎上する今川館を指差しながら、熱く主君を諫めたと言われています。これは極めて勇気のいる行動でした。戦国時代において、主君の命令に逆らうことは重罪です。しかし信春は、曲がったことが大嫌いな性格から、たとえ主君であっても間違っていると思えば堂々と意見したのです。
信玄が感謝した信春の諫言
信春の諫言を聞いた武田信玄は、しばらく黙って考え込みました。そして、こう言ったと伝えられています。
「お前の言う通りだ。馬場、お前がいなければ私は恥をかくところだった」
信玄は財宝略奪の命令を撤回し、今川館の財宝はすべて火の中に消えるままにしました。この決断により、武田軍は「義理を重んじる軍勢」として、天下にその名を知られることになります。
この馬場信春の逸話は、彼の人物像を理解する上で非常に重要です。信春は単なる武力に優れた武将ではなく、道義と正義を重んじる武士だったのです。
戦国時代は力が全ての時代と思われがちですが、実際には道義や名誉も重要視されていました。信春のような「真面目で一本気な性格」の武将がいたからこそ、武田家は家臣団の結束が固く、強大な勢力を誇ることができたのです。
信玄が信春の意見を聞き入れたことも重要です。これは信玄が「諫言を受け入れる度量」を持っていたことを示しています。主君と家臣の信頼関係——それが武田家の強さの秘密でした。
【逸話6】三方ヶ原の戦いで家康を9km追撃!

徳川軍を壊滅させた圧倒的強さ
元亀3年(1572年)、馬場信春の逸話の中でも特に有名なのが三方ヶ原の戦いです。
武田信玄が西上作戦を開始し、徳川家康の領地に侵攻した時のことです。若き家康は武田軍を迎え撃つために出陣しますが、これが大きな判断ミスでした。
三方ヶ原で両軍が激突すると、武田軍の圧倒的な強さが炸裂します。中でも馬場信春率いる部隊は、徳川軍の中核を次々と打ち破っていきました。
信春は敗走する徳川軍を浜松城まで約9km追撃します。この追撃は容赦ないもので、徳川軍は壊滅的な被害を受けました。家康自身も命からがら浜松城に逃げ帰り、あまりの恐怖に「脱糞した」という有名な逸話が残っています(家康はこの屈辱を忘れないため、自らの敗北の姿を絵師に描かせて教訓としたと言われています 徳川家康の「しかみ像(顰像)」)。
徳川家康の真実!忍耐の狸親父は作られた虚像だった-戦国時代探訪ポッドキャスト
この戦いでの信春の活躍は圧倒的でした。徳川方の記録にも「馬場美濃守の部隊に攻められ、多くの将兵が討ち死にした」と記されており、信春の猛攻がいかに激しかったかが分かります。
敵将を褒め称える武士の心
三方ヶ原の戦い後、馬場信春が語ったとされる言葉が残っています。
戦場を見回った信春は、戦死した三河武士(徳川家の武士)たちの姿を見て、こう言ったと伝えられています。
「三河武士は皆、武田の方に向かって倒れている。背を見せて逃げた者は一人もいない。見事な武士たちだ」
これは敵を称賛する言葉です。戦国時代において、敵であっても勇敢に戦った武士は尊敬されました。馬場信春の逸話には、このように敵の勇気を認める「器の大きさ」が何度も登場します。
実際、三河武士は徳川家康に忠誠を誓い、決して裏切らないことで知られていました。その三河武士たちが最後まで戦い抜いた姿を、信春は武士として認めたのです。
この言葉は後に徳川方にも伝わり、「馬場美濃守は恐ろしい敵だが、立派な武将だ」と評価されるようになります。敵味方を超えた武士の心——それが馬場信春の魅力の一つでした。
三方ヶ原の戦いでの信春の活躍は、武田軍の中でも特に際立っていました。この戦いを通じて、「不死身の鬼美濃」の名はさらに天下に轟くことになったのです。
【逸話7】「押し太鼓」の九字を開発!武田軍を強化
軍事作法の革新者としての一面
馬場信春の逸話を語る上で見逃せないのが、彼の軍事作法への貢献です。
信春は単なる武将ではなく、軍事システムの革新者でもありました。特に有名なのが、「押し太鼓」の九字と呼ばれる軍事作法の開発です。
戦国時代の合戦では、太鼓や法螺貝が重要な役割を果たしていました。これらの音で、遠く離れた部隊に指示を伝えるのです。しかし、単純な音だけでは複雑な指示を伝えることができません。
そこで信春が考案したのが、太鼓の打ち方を9種類に分類し、それぞれに意味を持たせるシステムでした。
| 九字の名称 | 意味 | 使用場面 |
|---|---|---|
| 寄せ | 前進開始 | 攻撃開始時 |
| 序 | ゆっくり進む | 敵の様子を探る時 |
| 急 | 速く攻める | 突撃時 |
| 破 | 一気に崩す | 敵陣突破時 |
| 追い込み | 敵を追う | 敗走する敵への追撃 |
| 引き | 後退 | 戦況不利な時 |
| 控え | その場で待機 | 次の指示待ち |
| 兜 | 防御態勢 | 敵の攻撃に備える |
| 鎮め | 戦闘終了 | 合戦の終了を知らせる |
この九字は、密教の九字「臨兵闘者皆陣列在前(りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」になぞらえて命名されたと言われています。これにより、武田軍は統率の取れた行動が可能になり、他の戦国大名の軍勢よりも一歩進んだ軍事力を持つことができたのです。
馬場信春の逸話には、この「押し太鼓の九字」を使って、複雑な作戦を見事に成功させた場面が何度も登場します。信春は戦場での実戦経験を活かし、より効率的な軍事作法を生み出したのです。
この功績は、後の江戸時代になっても武田流軍学として受け継がれ、多くの武士に学ばれました。馬場信春は「不死身の鬼美濃」としてだけでなく、軍事革新者としても歴史に名を残したのです。
【逸話8】生涯無傷の伝説!70回以上の出陣

かすり傷一つ負わなかった40数年
馬場信春の逸話の中で最も驚異的なのが、生涯無傷の記録です。
信春は17歳で初陣を飾ってから、60歳で長篠の戦いに散るまで、実に70回以上の合戦に参加したと言われています。しかし、その間、かすり傷一つ負わなかったというのです。
戦国時代の合戦は、現代人が想像する以上に過酷なものでした。刀や槍が飛び交い、矢が雨のように降り注ぐ中で、無傷でいることは奇跡に近いことです。
この記録は単なる幸運ではありません。信春には「無傷でいるための戦略眼と判断力」があったのです。
師匠の小幡虎盛から学んだ「負けない戦をする」という教えを、信春は完璧に実践していました。彼は戦場で以下のことを常に意識していたと言われています。
- 敵の動きを事前に予測する
- 危険な場所には近づかない
- 必要以上に深入りしない
- 部下を適切に配置し、自分は全体を見る位置にいる
信春は猪突猛進型の武将ではなく、冷静に戦況を見極める指揮官型の武将だったのです。だからこそ、40数年間も無傷でいられたのです。
「不死身」を支えた情報収集力
馬場信春の逸話において、彼の「不死身」を支えたもう一つの要素が情報収集力です。
信春は戦に臨む前、必ず敵の領地の情報を徹底的に集めました。地形、道路、川の位置、村の場所——これらすべてを把握してから戦場に向かったのです。
特に有名なのが、敵領の絵図を事前に完成させていたというエピソードです。ある時、武田軍が敵領に侵攻する前、信玄が「この地域の地形はどうなっている?」と尋ねたところ、信春はすでに詳細な絵図を作成していました。
さらに驚くべきは、信春が天竜川の浅瀬の位置まで把握していたという逸話です。天竜川は大きな川で、どこを渡るかによって軍の進行速度が大きく変わります。信春は事前に偵察を行い、最適な渡河地点を見つけていたのです。
この緻密な情報収集力があったからこそ、信春は戦場で不意打ちを受けることなく、常に有利な位置で戦うことができました。そしてそれが、「生涯無傷」という伝説につながったのです。
馬場信春の逸話から学べるのは、「武勇だけでなく、準備と情報が勝利を生む」ということです。彼の「不死身」は、決して偶然ではなかったのです。
【逸話9】長篠の戦いで勝頼に必死の諫言

「退くべき」と繰り返し進言
天正3年(1575年)、馬場信春の逸話の中でも最も悲劇的なのが長篠の戦いです。
武田勝頼(信玄の息子で四代目当主)は、織田信長・徳川家康連合軍と長篠で対峙します。しかし、戦況は武田軍に圧倒的に不利でした。
馬場信春はこの状況を冷静に分析し、勝頼に対して「退くべきです」と繰り返し進言します。信春が指摘した不利な点は以下の通りです。
- 兵力差: 武田軍約1万5千に対し、織田・徳川連合軍は約3万8千
- 鉄砲隊の脅威: 織田軍は3千丁もの鉄砲を用意し、三段撃ちを準備していた
- 防御柵の存在: 敵は堅固な柵と堀を築いており、正面攻撃は自殺行為
信春は60歳という高齢でありながら、戦場での経験と冷静な分析力で、この戦いが「敗北確実」であることを見抜いていました。
しかし、若き武田勝頼は信春の意見を聞き入れません。勝頼は父・信玄の偉大さに対するコンプレックスから、大きな戦果を上げて自分の実力を示したかったのです。
信春は再度、妥協案を提示します。
「それでは、せめて一部の部隊だけで攻撃し、全軍での総攻撃は避けましょう」
しかし、この案も却下されました。馬場信春の逸話において、この場面は彼の「冷静な戦略眼」と「主君への忠誠」の葛藤が最もよく表れた瞬間です。
聞き入れられなかった信春の予言
信春だけでなく、他の重臣たちも勝頼に撤退を進言しました。しかし、勝頼は聞く耳を持ちませんでした。
勝頼が老臣たちの意見を嫌った理由は、彼らが全員「父・信玄の時代の武将」だったからです。勝頼は「父の影」から抜け出したいという思いが強く、老臣たちの保守的な意見を「臆病」だと感じていたのです。
信春は最後にこう言ったと伝えられています。
「この戦、勝ち目はございません。しかし、殿がお決めになったのであれば、この馬場信春、最後までお供いたします」
この言葉には、信春の諦めと覚悟が込められていました。彼は自分の予言が的中することを知っていましたが、それでも主君に従う道を選んだのです。
馬場信春の逸話の中で、この長篠の戦い前の諫言は「武士の忠義とは何か」を考えさせられる重要なエピソードです。信春は主君の間違いを指摘しましたが、最終的には主君の決断に従いました。これこそが、戦国時代の武士の生き方だったのです。
【逸話10】壮絶な最期!長篠で見せた武士の魂

750騎で6000の敵に突撃
天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いが始まりました。
武田軍は織田・徳川連合軍の陣地に向けて総攻撃を開始します。しかし、馬場信春の予言通り、武田軍は織田軍の鉄砲隊によって次々と倒れていきます。
信春は自らの部隊750騎を率いて戦場に臨みました。目の前には織田軍の有力武将、滝川一益や佐久間信盛が率いる約6000の兵がいました。兵力差は約8倍です。
しかし、「不死身の鬼美濃」馬場信春は怯みません。彼は部隊を率いて敵陣に突撃し、見事に敵兵を討ち取ります。この時、信春は70回以上の合戦で初めて、そして最後の敵を討ったのです。
40数年間無傷だった信春ですが、この長篠の戦いでついに傷を負います。しかし、彼は戦い続けました。馬場信春の逸話において、この最後の戦いは彼の武士としての魂が最も輝いた瞬間です。
勝頼を逃がすため殿軍を務める
戦況は絶望的でした。武田軍の主力武将たちが次々と討ち死にしていきます。山県昌景、内藤昌豊、真田信綱、真田昌輝——武田四天王のうち、山県と内藤がこの戦いで命を落としたのです(別記事で詳しく解説)。
この状況で、馬場信春は重要な決断をします。それは武田勝頼を戦場から逃がすことでした。
信春は勝頼に向かって言います。
「勝頼様だけは生き伸びてもらわねばなりません。ここは私が殿(しんがり)を務めます。どうか、お逃げください」
殿とは、撤退する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役割のことです。最も危険な任務であり、多くの場合、殿を務めた武将は戦死します。
信春は勝頼を逃がすため、わずかな手勢で敵の大軍を引き受けます。彼の部隊は次々と倒れていきますが、信春自身は最後まで戦い続けました。
敵将・織田信長も称賛した最期
馬場信春は命尽きるまで戦場に留まりました。全身に無数の傷を負い、もはや立つこともできなくなった時、信春は自害を選びます。
介錯を務めたのは、信春の家臣でした。信春は静かに目を閉じ、60年の生涯を終えたのです。
この信春の最期は、敵方にも大きな衝撃を与えました。織田信長は長篠の戦い後、戦死した武将たちの様子を記録させます。その記録『信長公記』には、馬場信春について以下のように記されています。
「馬場美濃守信春、働き比類なし」
「働き比類なし」とは、「その戦いぶりは他に比べるものがない」という意味です。敵将である信長が、信春の最期を最大級の言葉で称賛したのです。
馬場信春の逸話は、この壮絶な最期で幕を閉じます。40数年間無傷だった「不死身の鬼美濃」は、主君を守るために、あえて死を選んだのです。
信春が逃がした武田勝頼は、その後4年間生き延びますが、最終的には武田家は滅亡します。しかし、信春の忠義は永遠に語り継がれることになりました。
馬場信春の逸話から学ぶ戦国武将の理想像
武勇と知略を兼ね備えた文武両道
ここまで10の逸話を通じて馬場信春の生涯を見てきましたが、彼の魅力は一言では表せません。
まず、信春は武勇に優れていました。70回以上の合戦に参加し、40数年間無傷という「不死身」の記録がそれを証明しています。三方ヶ原の戦いで徳川軍を9km追撃し、長篠の戦いで最後まで戦い抜いた姿は、まさに「鬼美濃」の名にふさわしいものでした。
同時に、信春は知略にも長けていました。川中島の戦いでの慎重な作戦提案や、長篠の戦い前の冷静な状況分析は、彼が単なる猪武者ではなく、優れた戦略家であったことを示しています。
さらに、信春は築城術や軍事作法の革新者でもありました。深志城や牧之島城など、彼が手がけた城は防御に優れており、「押し太鼓の九字」という軍事作法は武田軍の強さを支えました。
馬場信春の逸話から学べるのは、「真の武将とは、武勇だけでなく知略も必要である」ということです。戦国時代を生き抜くには、多方面での才能が求められたのです。
真面目で曲がったことが大嫌いな性格
信春の人物像を語る上で欠かせないのが、その真面目で一本気な性格です。
今川館炎上事件で、主君の武田信玄に対してさえ「財宝略奪は恥だ」と諫言したエピソードは、信春の正義感の強さを物語っています。戦国時代において、主君の命令に逆らうことは命懸けの行為でしたが、信春は「曲がったことは許せない」という信念を貫いたのです。
この性格は、配下や同僚からの人望の厚さにつながりました。信春は部下を大切にし、約束を守り、嘘をつかない武将として知られていました。だからこそ、120騎もの騎馬武者を率いる侍大将として、多くの兵士たちから信頼されたのです。
馬場信春の逸話において、この「真面目さ」は彼の最大の魅力の一つです。力だけでなく、人格も優れていた——それが信春が後世まで尊敬される理由なのです。
主君への絶対的な忠義
最後に、馬場信春の生き方を象徴するのが主君への忠義です。
信春は武田三代(信虎・信玄・勝頼)に仕え、43年間一度も裏切ることなく武田家に尽くしました。特に印象的なのは、武田勝頼への忠誠です。
勝頼は父・信玄に比べて統率力に欠け、長篠の戦いでは信春の諫言を無視しました。しかし、信春は最後まで勝頼を支えます。「殿の決断が間違っていても、従うのが家臣の務め」——これが信春の信念でした。
長篠の戦いで、信春は勝頼を逃がすために殿軍を務め、自らの命を捧げます。この行動こそが、武士の忠義の究極の形でした。
馬場信春の逸話が現代まで語り継がれるのは、彼が「武士の理想像」を体現していたからです。武勇、知略、誠実さ、そして忠義——これらすべてを兼ね備えた信春は、戦国時代を代表する名将だったのです。
馬場信春と関係の深い武田家の武将たち

武田四天王の他のメンバー
馬場信春は武田四天王の一人として数えられますが、他のメンバーも非常に興味深い武将たちです。
山県昌景(やまがた まさかげ) 赤い甲冑を身にまとい、「赤備え」の部隊を率いたことで有名な武将です。信玄から「我が目の如し」と評されるほど信頼されていました。長篠の戦いで信春とともに戦死しました。(別記事で詳しく解説)
高坂昌信(こうさか まさのぶ) 元は春日源五郎という名で、信玄に見出されて重用された武将です。海津城の城代として上杉謙信と対峙し、優れた外交手腕も発揮しました。武田四天王の中で唯一、長篠の戦いを生き延びた人物です。(別記事で詳しく解説)
内藤昌豊(ないとう まさとよ) 信玄の側近として活躍し、外交や内政でも手腕を発揮した武将です。長篠の戦いで信春や山県とともに戦死し、武田家の滅亡を早める結果となりました。(別記事で詳しく解説)
馬場信春の逸話を知った後は、ぜひ他の武田四天王についても調べてみてください。それぞれに魅力的なエピソードがあり、武田家がなぜ強大だったのかがより深く理解できるはずです。
馬場信春に影響を与えた師匠たち
信春の人生に大きな影響を与えた二人の師匠についても触れておきましょう。
山本勘助 武田信玄の軍師として有名な人物です。信春に築城術を伝授し、「城取の奥義」を教えました。勘助は川中島の戦いで討ち死にしますが、その教えは信春の中に生き続けました。(別記事で詳しく解説)
小幡虎盛 「黒御幣」の旗印で知られる猛将で、信春の最初の師匠です。「負けない戦をする」という戦の心構えを教え、その旗印を信春に譲りました。虎盛の教えが、信春の「生涯無傷」の基礎となったのです。(別記事で詳しく解説)
馬場信春の逸話には、これらの師匠たちから学んだ知恵が随所に活かされています。
主君・武田信玄と武田勝頼
最後に、信春が仕えた二人の主君についても簡単にご紹介します。
武田信玄 「甲斐の虎」と呼ばれた戦国時代屈指の名将です。信春を馬場家の名跡に就かせ、「一国の主になれる器量」と評価しました。信玄と信春の信頼関係が、武田家の黄金時代を築いたのです。(別記事で詳しく解説)
武田勝頼 信玄の息子で、武田家四代目当主です。若くして当主となり、父の偉大さと比較されるプレッシャーの中で戦いました。信春は勝頼の判断ミスに苦しみながらも、最後まで忠誠を尽くしました。(別記事で詳しく解説)
馬場信春の逸話を通じて、これらの武将たちへの興味が湧いてきたのではないでしょうか。それぞれの人物を深く知ることで、戦国時代の武田家の全体像が見えてくるはずです。
まとめ

ここまで、馬場信春の逸話10選をご紹介してきました。最後に、信春の生涯を振り返ってみましょう。
馬場信春の逸話10選の振り返り
- 17歳の初陣で才能を開花させ、武田信虎の親衛隊に抜擢
- 小幡虎盛と山本勘助という二人の名将から兵法を学ぶ
- 武田信玄から認められ、馬場家の名跡を継ぎ、「一国の主になれる」と評価される
- 川中島の戦いで慎重な作戦提案と窮地の挽回
- 今川館炎上事件で財宝略奪を制止し、武田の名誉を守る
- 三方ヶ原の戦いで徳川家康を9km追撃し、敵将も称賛する武士の心を見せる
- 「押し太鼓」の九字を開発し、武田軍の軍事力を強化
- 70回以上の出陣で生涯無傷という驚異的な記録を達成
- 長篠の戦い前に勝頼へ必死の諫言をするも聞き入れられず
- 長篠の戦いで勝頼を逃がすため殿軍を務め、壮絶な最期を遂げる
これらの馬場信春の逸話は、彼が単なる強い武将ではなく、知略・人格・忠義を兼ね備えた理想的な武士だったことを物語っています。
「不死身の鬼美濃」が現代に伝える教訓
馬場信春の逸話から、私たちは多くのことを学べます。
準備と情報の重要性 信春の「生涯無傷」は、徹底した事前準備と情報収集の賜物でした。現代のビジネスや日常生活でも、準備の大切さは変わりません。
誠実さが信頼を生む 今川館の財宝事件で見せた信春の誠実さは、主君からの信頼を得ることにつながりました。正しいことを貫く勇気は、いつの時代も価値があります。
忠義と覚悟 長篠の戦いで、信春は主君の判断ミスを知りながらも最後まで尽くしました。これは盲目的な服従ではなく、「自分の役割を最後まで果たす」という覚悟の表れです。
武士の理想像としての信春の魅力
馬場信春の逸話が570年以上経った現代でも語り継がれるのは、彼が時代を超えた武士の理想像を体現しているからです。
力だけでなく知恵も持ち、正義を貫き、主君に忠実で、敵にも敬意を払う——そんな信春の生き方は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。
もしあなたが戦国時代や武田家に興味を持ったなら、ぜひ他の武将たちの逸話も調べてみてください。山県昌景の「赤備え」、高坂昌信の外交手腕、武田信玄の風林火山——それぞれに魅力的な物語が待っています。
馬場信春の逸話を通じて、戦国時代の武士たちの生き様に触れる旅を楽しんでいただけたなら幸いです。不死身の鬼美濃・馬場信春という一人の武将の人生から、私たちは「誠実に、勇敢に、そして信念を持って生きる」ことの大切さを学べるのです。


