
戦国時代といえば、織田信長や武田信玄といった戦国武将の戦いの歴史が語られることが多いですが、実は医療の分野でも革命的な出来事が起こっていたことをご存知でしょうか。
その舞台となったのが、現在の大分県にあたる豊後国。キリシタン大名として知られる大友宗麟の統治下で、日本初の西洋式病院が誕生し、画期的な医療が実践されていたのです。
今回は、大友宗麟(おおとも そうりん)と西洋医学の導入について、その背景から具体的な医療の内容、そして日本の医療史に与えた影響まで、詳しく見ていきましょう。

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大友宗麟とは?北九州の覇者にして文化人

九州随一の勢力を誇った戦国大名
大友宗麟(おおとも そうりん)(1530-1587)は、豊後国府内(現在の大分市)を本拠地とした戦国大名です。源頼朝の血を引くとされる名門・大友氏の第21代当主として、一時は豊前・豊後、筑前・筑後、肥前・肥後の北九州6カ国を支配するほどの勢力を築きました。
大友 義鎮(おおとも よししげ)法号、宗麟(そうりん)
南蛮貿易で築いた経済力
宗麟の強さの秘密は、その優れた外交センスと経済力にありました。1550年代から積極的に南蛮貿易を推進し、ポルトガル船や中国船を豊後府内や臼杵港に招き入れ、莫大な富を蓄積していったのです。
この経済力を背景に、宗麟は官職の獲得や軍備の増強を行い、北九州の覇者としての地位を確立しました。
西洋文化への開かれた姿勢
宗麟がキリスト教に洗礼を受けたのは1578年(天正6年)。当初は南蛮貿易を円滑に進めるための政治的判断という側面もありましたが、その過程で西洋の文化や技術を積極的に取り入れる姿勢を示しました。
この「開かれた心」が、後に日本初の西洋式病院誕生へとつながっていくのです。
運命の出会い:ルイス・デ・アルメイダの来日
商人から医療宣教師へ
ルイス・デ・アルメイダ(1525-1583)は、ポルトガル・リスボンで生まれた人物です。彼の人生は、まさに劇的な転換を遂げます。
1546年、わずか21歳でポルトガル国王から外科医師の免許を取得。当時のポルトガルでは医師国家試験制度があり、アルメイダは正式な医学教育を受けた有資格者だったのです。
その後、インドのゴアやマカオでの貿易で巨万の富を築きますが、航海中にイエズス会宣教師の奉仕活動に深く感銘を受け、「神に仕える人生」を選択します。
豊後への到着と決断
1555年9月20日、アルメイダは平戸に到着し、その後豊後府内へと向かいました。そこで彼が目にしたのは、戦乱の世の中で苦しむ人々、貧困のために嬰児を殺さざるを得ない親たちの姿でした。
医師としての技術を持ち、莫大な財産を持つアルメイダは、ここで人生の使命を見出します。「この地で医療を通じて人々を救う」と。
日本初の西洋式病院「府内病院」の誕生
孤児院から病院へ
アルメイダはまず1555年晩秋、大友宗麟に願い出て孤児院を設立します。自らの財産から千クルサド(当時の大金)を投じ、「慈悲の組」(ミゼリコルジア)という組織を作って運営しました。
しかし、冬の寒さや下痢の続発など、運営の困難に直面。約1年後、孤児院は廃止され、より包括的な病院設立へと方針転換します。
1557年2月、日本初の西洋式病院開院
1557年(弘治3年)2月、ついに「府内病院」が正式に開院しました。
病院の特徴は以下の通りです:
施設の構造
- ハンセン病棟と一般病棟(内科・外科)の2つの病棟
- 旧府内教会の建物を増改築した病棟
- 1559年には石の基礎の上に木造の新病棟を増築
- 新病棟は中央に廊下、両側に4部屋ずつで、最大16人収容可能
- 病院周辺には医療従事者や「慈悲の組」のメンバーの住居も
収容能力
- 全体で約100名を超える入院患者を収容
- ハンセン病棟には常時約30名の患者を収容
- 1559年の夏から秋だけで、200人以上が治療を受けた
- 1562年には、入院患者100名以上に加え、毎日多数の外来患者が訪れた
革命的だった西洋医学の内容
外科手術という革新
当時の日本では、医療といえば主に漢方医学や民間療法が中心でした。薬草を煎じて飲む、灸を据えるといった方法です。
しかしアルメイダがもたらした西洋医学は、根本的に異なっていました。
実践された外科手術
- 大血管の結紮による四肢切断術
- 銃創(鉄砲傷)の治療
- その他、直接的な外科的介入
これらは当時の日本人にとって、まさに「魔法」のような技術でした。体を「切る」という発想自体が、東洋医学にはなかったのです。
最先端の医薬品と医療器具
アルメイダは、マカオやゴアから貴重な医薬品を取り寄せていました:
- 大風子油:ハンセン病の特効薬として使用される塗布薬
- 葡萄酒:消毒や栄養補給に使用
- オリーブオイル:医療用として
- 椰子油:治療用として
これらは当時の日本では入手不可能な貴重品でしたが、府内病院では無料で患者に提供されていたのです。
日本人医師の養成
アルメイダの功績で特筆すべきは、日本人医師の育成にも取り組んだことです。
パウロ・キョウゼン(京善)
大和国(現在の奈良県)多武峰の僧侶で、すでに漢方医として高名だった人物。イエズス会に入会し、アルメイダと共に府内病院で医療に従事しました。ルイス・フロイス神父は彼を「日本の仏教宗派の中で最も学識があり、かつ第一級の医者」と評しています。
医学教育の開始
- 1556年:パウロ・キョウゼンがイエズス会に入会
- 1557年2月:府内病院が正式開院
- 1557年:キョウゼンは漢方医として府内病院で活躍。優れた漢方の知識を持ち、中国の医学書を読み解き処方を作成。馬に薬箱を載せて往診も行った
- 1557年9月:パウロ・キョウゼンが亡くなる(イエズス会年報に「清き終焉を遂げた」と記録)
- その後:アルメイダが日本人医師の養成を継続
キョウゼンは府内病院の開院から約半年という短い期間でしたが、その間に漢方医学の専門知識を活かして多くの患者の治療に貢献し、高い回復率を実現したということです。
当時の日本では考えられなかった「ハンセン病棟」
「天罰」とされた病への挑戦
府内病院の革新性を語る上で、ハンセン病棟の存在は特別な意義を持ちます。
当時の日本では、ハンセン病は「天罰」「神仏の怒り」による病とされ、患者は社会から完全に排除されていました。神道では「不浄」、仏教では「仏罰」として忌み嫌われ、武士の誓約書にも「もし誓いを破れば、ハンセン病に罹っても構わない」という文言が使われるほどでした。
キリスト教の愛の実践
しかしアルメイダとイエズス会は、キリスト教の「愛」の教えに基づき、ハンセン病患者を一人の病人として受け入れ、治療したのです。
これは当時の日本人の価値観からは、まったく理解不能な行動でした。大友宗麟の英断により、自らの居館のすぐ裏手にハンセン病棟の設置を認めたことも、特筆すべき決断だったのです。
治療の内容
- 大風子油による塗布治療
- 栄養価の高い食事の提供
- 精神面でのキリスト教的看護
- 人間としての尊厳を保つケア
これらの総合的なアプローチにより、多くの患者の症状が改善したと記録されています。
府内病院の評判と影響
全国に広まった名声
府内病院の名声は、豊後国内にとどまらず、瞬く間に全国へと広がりました。
京都、堺、比叡山にまでその評判が届き、遠く五畿内(現在の近畿地方)からわざわざ旅をして治療を受けに来る患者が後を絶ちませんでした。
これは、当時の医療水準と比べて、府内病院の技術がいかに画期的だったかを物語っています。
アルメイダの九州各地での活動
やがてアルメイダは、府内病院を拠点としながら、九州全域を巡回して医療活動を展開するようになります。
各地で外科手術を行い、病人を治療し、同時にキリスト教の布教も行いました。彼は医療を通じて、多くの人々の心に「愛」と「希望」を届けたのです。
東洋医学と西洋医学の決定的な違い
思想の違い
東洋医学(漢方医学)
- 全体論的アプローチ:体全体のバランスを重視
- 気・血・水の概念に基づく診断
- 体質や環境を考慮した治療
- 予防医学的側面が強い
- 非観血的療法:体を切らない
西洋医学
- 局所的アプローチ:病気の部位に直接働きかける
- 解剖学的知識に基づく診断
- 観血的療法:外科手術を含む
- 即効性を重視
- 科学的検証を重視
治療法の違い
当時の日本の医療では、戦場での外傷に対しても、主に「金創医」と呼ばれる武士自らの手による応急処置や、従軍僧医による薬草治療が中心でした。
一方、アルメイダが持ち込んだ西洋医学は:
- メスを使った切開
- 血管の結紮
- 四肢の切断術
- 銃創の専門的治療
など、直接的な外科的介入が可能でした。これは当時の日本にとって、まさに「パラダイムシフト」だったのです。
大友宗麟の先進性と歴史的意義
なぜ宗麟は西洋医学を受け入れたのか
大友宗麟が西洋医学の導入を許可し、支援した背景には、いくつかの要因があります:
1. 南蛮貿易の促進
西洋との良好な関係を維持することは、経済的に大きなメリットがありました。
2. 民衆への慈悲
領主として、領民の健康と福祉を考える姿勢があった。
3. 文化的好奇心
宗麟自身が茶道や文化に造詣が深く、新しい知識や技術に対する開かれた心を持っていた。
4. 戦略的判断
優れた医療技術を持つことは、軍事的にも有利であり、家臣団や領民の忠誠を高める効果があった。
「西洋医術発祥の地」としての大分
現在の大分市には、「西洋医術発祥の地」を記念する像が立っています。
中央にアルメイダ、その両脇に日本人助手を配した像は、アルメイダが外科手術を始めようとする瞬間を表現しています。
これは、日本の医療史における重要な転換点を後世に伝える貴重なモニュメントです。
府内病院のその後と消滅
繁栄から衰退へ
府内病院は1557年の開院から約30年間、日本における西洋医学の中心地として機能しました。
しかし、1587年に大友宗麟が亡くなり、その後キリシタン弾圧が強化される中で、府内病院も徐々にその活動を縮小せざるを得なくなります。
発掘調査で明らかになった遺構
2001年、JR大分駅の高架化に伴う発掘調査で、府内教会と病院の墓地の一部が発見されました。
18基の墓が確認され、その埋葬方法は西洋式の「伸展葬」(仰向けに足を伸ばした状態)。これは、府内病院の存在を物理的に証明する貴重な考古学的証拠となりました。
現代に受け継がれる遺産
アルメイダ病院
現在の大分市には、「大分市医師会立アルメイダ病院」(1969年開設)があります。
この病院名は、450年以上前に日本初の西洋式病院を創設したルイス・デ・アルメイダの功績を称え、その精神を受け継ぐために名付けられました。
日本の医療史における位置づけ
府内病院は、日本における西洋医学の起点として、医療史上極めて重要な位置を占めています。
幕末の長崎・小島養生所(1861年開設)や、その後の明治期の西洋医学導入よりも、実に300年以上も前に、すでに本格的な西洋式病院が日本で機能していたという事実は、もっと広く知られるべきでしょう。
まとめ:大友宗麟の遺産
大友宗麟とルイス・デ・アルメイダ。
この二人の出会いがなければ、日本の医療史は大きく異なっていたかもしれません。
宗麟の開かれた心、新しい文化や技術を受け入れる柔軟性。そしてアルメイダの献身的な医療活動と、日本人への惜しみない技術伝承。
これらが融合して生まれた「府内病院」は、わずか30年という短い期間でしたが、確実に日本の医療に新しい風を吹き込みました。
現代の私たちが享受している高度な医療の原点の一つが、450年以上前の豊後府内にあったということ。この歴史的事実を、ぜひ多くの方に知っていただきたいと思います。
大分を訪れた際には、遊歩公園の「西洋医術発祥記念像」や、アルメイダ病院に立ち寄り、この偉大な歴史の一端に触れてみてはいかがでしょうか。
戦国の覇者・大友宗麟が切り拓いた「医療の扉」は、今もなお、私たちに重要なメッセージを投げかけています。
参考文献
- 大分市「西洋医術発祥の地おおいた」
- ルイス・デ・アルメイダ – Wikipedia
- 大分市デジタルアーカイブ
- 髙田重孝「豊後府内のキリシタン教会と附属病院の発展と消滅」



