石田三成(いしだ みつなり)人物年表

石田三成特集
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石田三成(いしだ みつなり、1560-1600)は、安土桃山時代の武将・大名で、豊臣秀吉の重臣として活躍した五奉行の一人です。近江国(現在の滋賀県)出身で、幼少期より豊臣秀吉に仕え、行政・外交・検地などに卓越した能力を発揮しました。

公正無私な性格と信義を重んじる姿勢から忠臣として知られ、秀吉の死後は徳川家康の台頭に対抗して西軍を組織し、関ヶ原の戦いで敗れて処刑されました。その忠義と清廉な人柄は後世まで語り継がれています。

石田三成人物年表

西暦・和暦年齢石田三成の出来事同時代の歴史的出来事
1560年
(永禄3年)
1歳近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市)にて、石田正継の三男として誕生。幼名は佐吉。桶狭間の戦い – 織田信長が今川義元を破る。浅井長政が家督を継承し勢力拡大を図る。
1574年
(天正2年)
15歳父・石田正継、兄・石田正澄とともに羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕官。三成は小姓として仕える。織田信長の中国攻め本格化。羽柴秀吉が中国地方攻略の司令官として活動開始。
1581年
(天正9年)
22歳仙石秀久が指揮する淡路島攻略戦に同行。広田藤吾の戦功を秀吉に取り次ぎ、外交能力を発揮。織田信長による天下統一事業が進展。各地で城攻めが続く。
1582年
(天正10年)
23歳本能寺の変により織田信長が横死。山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉の側近として頭角を現し始める。本能寺の変 – 明智光秀が織田信長を討つ。山崎の戦いで秀吉が光秀を破り、後継者争いが激化。
1583年
(天正11年)
24歳賤ヶ岳の戦いで柴田軍の動向を探る偵察役を務める。本戦では先駆衆として一番槍の功名を挙げる。賤ヶ岳の戦い – 秀吉が柴田勝家を破り、織田家の後継者としての地位を確立。
1584年
(天正12年)
25歳小牧・長久手の戦いに従軍。近江国蒲生郡で太閤検地の奉行を務め、官僚としての実務能力を発揮。小牧・長久手の戦い – 秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が対峙。太閤検地開始。
1585年
(天正13年)
26歳秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される。26歳での異例の出世を遂げる。豊臣秀吉が関白に就任し、朝廷から正式な権威を得る。紀州征伐、四国征伐を実施。
1586年
(天正14年)
27歳名将・島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱える。堺奉行に任命され、国際貿易都市の統治を担当。秀吉の九州征伐準備開始。大坂城築城本格化。南蛮貿易が隆盛。
1587年
(天正15年)
28歳九州平定(九州征伐)に秀吉とともに従軍。西国の大名統制に参加。九州征伐 – 秀吉が島津氏を降伏させ、九州を平定。バテレン追放令発布。
1590年
(天正18年)
31歳小田原征伐に参陣。後北条氏の館林城・忍城への攻撃を指揮。水攻めなど巧妙な戦術を用いる。小田原征伐 – 秀吉が後北条氏を滅ぼし、天下統一を完成。徳川家康が関東に移封。
1591年
(天正19年)
32歳佐和山城(滋賀県彦根市)に城代として入城。近江国の要衝を治める重責を担う。秀吉による身分統制令発布。朝鮮出兵の準備開始。千利休切腹事件。
1592年
(文禄元年)
33歳文禄の役(朝鮮出兵)で漢城(現在のソウル)に駐留し、朝鮮出兵の総奉行として兵站・補給を統括。文禄の役開始 – 朝鮮出兵により日本軍が朝鮮半島に上陸。明軍の介入で戦況膠着。
1595年
(文禄4年)
36歳秀吉より近江・佐和山の所領を正式に与えられ、佐和山城主となる。19万4千石の大名に。豊臣秀次切腹事件。秀吉の甥・秀次とその一族が粛清される政治的混乱。
1596年
(慶長元年)
37歳京都奉行に任命され、キリシタン弾圧を秀吉から命じられる。宗教政策の実務を担当。慶長の役継続中。二十六聖人殉教事件。朝鮮での戦況は依然として膠着状態。
1597年
(慶長2年)
38歳慶長の役において国内での後方支援で活躍。兵站管理と物資調達で手腕を発揮。慶長の役 – 朝鮮出兵第二次。日本軍が再び朝鮮半島に出兵するが戦況は厳しさを増す。
1598年
(慶長3年)
39歳筑後国・筑前国の代官に任命。豊臣秀吉が死去し、嫡男・秀頼が家督を継ぐが政権内部で分断が進行。豊臣秀吉死去(8月18日) – 天下人の死により政治情勢が激変。朝鮮からの撤兵開始。
1599年
(慶長4年)
40歳石田三成襲撃事件が勃発。武断派七将に襲撃され、伏見城に逃れる。徳川家康の仲裁で和談成立するも五奉行から退く。徳川家康の政治的影響力拡大。前田利家死去により豊臣政権内の均衡が崩れる。
1600年
(慶長5年)
41歳関ヶ原の戦いが勃発。西軍の総大将として徳川家康率いる東軍と対峙するも敗北。逃亡中に捕縛され、六条河原で斬首される。関ヶ原の戦い(9月15日) – 天下分け目の戦いで東軍が勝利。徳川幕府成立への道筋が確定。

石田三成は、わずか41年の生涯の中で戦国時代から安土桃山時代への激動期を駆け抜けた忠臣でした。その清廉潔白な人格と豊臣家への忠義は、現在でも多くの人々に愛され続けています。

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