戦国時代の石高一覧:主要大名の領地と生産量を徹底解説

戦国時代の石高一覧:主要大名の領地と生産量を徹底解説 戦国の雑学
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戦国時代、日本の各地では多くの大名が領地を治め、その生産量を示す「石高(こくだか)」という単位が使用されていました。

石高は当時の経済力や軍事力を木目細かく表していたため、現代の我々にとっても貴重な資料となります。今回は、戦国時代の主要な大名と彼らの領地、そして生産量を徹底的に解説いたします。

お春
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石高とは何か?その意味と役割

石高とは何か?を貝瀬宇したグラレコ
石高について解説

石高は土地の米の収穫量を石(こく)という単位で表したものです。1石(一般的には米一石は約180リットル相当)は成人男子が1年間に消費する米の量とされ、石高が多いほど人口を養う力や軍勢を動員する力が大きいことを意味しました。

豊臣秀吉の太閤検地(1582〜1598年)によって全国的に整備され、江戸時代以降も藩の経済力を示す公式基準として利用されました。

太閤検地の特徴は以下の通りです

  • 全国統一的な測量基準の導入
  • 土地の等級分けと正確な石高算出
  • 荘園制度の完全な解体
  • 農民の土地所有権の明確化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)石高

織田信長の領地と石高

織田信長の領地

美濃平定まで(1567年・稲葉山城入城)

  • 尾張国:既に1550年代には尾張を統一(約40万石程度と推定)。
  • 美濃国:斎藤氏を破って支配(約50万石前後)。
    ➡ この時点で 90万石前後 の基盤を確立しました。

天下布武の拡大期(1570年代)

  • 浅井・朝倉を滅ぼし、近江・越前を支配下に置く。
  • 石山本願寺との戦いで畿内を掌握し、京都を支配。
    ➡ 信長の影響下には 畿内5カ国(山城・大和・河内・和泉・摂津) が加わりました。
    ただし、直轄地ではなく「家臣に分与」した部分も多く、石高の全てが信長の手に入ったわけではありません。

安土城時代(1579年以降)

  • 安土城を築き、近江を拠点に全国支配を進める。
  • 中国地方(毛利)、関東(北条)、東北(伊達)など遠隔地は同盟・従属関係。
  • 実際の直轄領は尾張・美濃・近江・伊勢・伊賀・越前など。

信長の石高推定

研究者によって幅がありますが、代表的な推定は以下の通りです。

  • 尾張+美濃 … 約90万石
  • 近江・伊勢・越前など直轄領 を加えて … 約180万石前後
  • 家臣に与えた分を含む「織田政権全体の総石高」 … 500〜600万石規模

つまり、直轄領としては180万石前後織田政権全体の勢力としては600万石クラスにのぼったと考えられます。

参考資料:『信長公記』(しんちょうこうき、のぶながこうき)Wikipedia 織田信長

豊臣秀吉の領地と石高

1. 織田家臣時代(〜1582年)

  • はじめは 近江国長浜城(約12万石)を与えられたにすぎません。
  • 本能寺の変(1582年)で信長が倒れた後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、勢力拡大の足がかりを得ました。

2. 中国大返し〜関白就任(1583〜1585年)

  • 賤ヶ岳の戦い(1583年)で柴田勝家を破り、織田家中の覇権を握る。
  • 大阪城を築き、近畿を掌握。
  • 1585年に関白に任じられ、大和・紀伊・河内・和泉・摂津など畿内一円を直轄。
    ➡ この時点で 約200万石規模

3. 全国統一へ(1586〜1590年)

  • 1586年:九州平定(島津氏を従属させる)
  • 1590年:小田原征伐で北条氏を滅ぼし、東日本を支配下に。
  • 奥州の伊達政宗も従属し、実質的に「全国統一」を成し遂げました。

➡ この段階で全国の石高は 約1800万〜2000万石。秀吉はほぼその全てを掌握。

4. 太閤検地と直轄領(1590〜1598年)

  • 太閤検地によって全国の石高を統一基準で算出。
  • 日本全体で 約1850万石 とされました。
  • そのうち豊臣家の直轄領(蔵入地)は 約220万石
  • 残りは家臣(徳川家康・前田利家・毛利輝元など)に分封。

豊臣秀吉の石高まとめ

  • 一城主時代:長浜12万石
  • 関白就任時:200万石前後
  • 全国統一後:全国総石高約1850万石
  • 直轄領(蔵入地):約220万石

豊臣秀吉の規模と意義

  • 織田信長の直轄領(180万石前後)を超え、政権全体では信長の約3倍の規模に。
  • 日本史上初めて 「全国統一政権」 を実現した点で画期的。
  • 秀吉の石高は「経済力=軍事力」であり、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を可能にした背景でもあります。

参考資料:Wikipedia 豊臣秀吉

徳川家康の領地と石高

1. 三河時代(松平家当主時代)

  • 三河国(現在の愛知県東部)を本拠。
  • 石高は 約20万石前後 と推定されています。
    ➡ 戦国大名としては中堅クラスでしたが、地の利を活かして徐々に勢力を拡大しました。

2. 織田信長との同盟期(1560〜1582年)

  • 尾張の織田信長と同盟し、駿河・遠江を攻略。
  • この頃の領地は 三河・遠江・駿河・一部の甲斐
  • 石高は 約80万石 にまで成長しました。

3. 豊臣政権下(小田原征伐後・1590年)

  • 秀吉が北条氏を滅ぼした後、家康は本拠を駿府から関東へ移されます(関東移封)。
  • 領地:武蔵・相模・上野・下総・上総・安房・常陸の一部など(関八州)
  • 石高:約250万石
    ➡ この時点で「東日本最大の大名」となり、徳川政権の基盤が完成しました。

4. 関ヶ原の戦い後(1600年)

  • 石田三成ら西軍を破り、事実上の覇権を掌握。
  • 豊臣秀頼を頂点にした体裁は残しつつも、家康は 徳川政権の準備 を進めました。
  • 関ヶ原直後の直轄領は 約300万石規模

5. 江戸幕府成立時(1603年)

  • 征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く。
  • 徳川将軍家の直轄領(天領) は約 400万石
  • 譜代・親藩・外様を含めた「徳川政権全体の石高」は 約800万石以上 とされます。

まとめ

  • 三河国時代:20万石
  • 織田同盟期:80万石
  • 関東移封後:250万石
  • 関ヶ原後:300万石
  • 江戸幕府成立時:直轄領400万石、徳川政権全体800万石以上

➡ 豊臣秀吉の「全国1800万石」には及ばないものの、家康は 直轄領の質と幕藩体制の仕組み で天下を安定的に支配しました。

参考資料:Wikipedia 徳川家康

伊達政宗の領地と石高

東北を代表する大名、伊達政宗も広い領地を支配していました。彼の領地とその石高以下の通りです。

  • 仙台藩:仙台は彼の本拠地であり、石高はおよそ62万石と非常に高かった。
  • 米沢藩:ここもまた伊達家の重要な領地で、石高はおよそ30万石。

参考資料:Wikipedia 伊達政宗

毛利元就の領地と石高

中国地方を掌握した大名、毛利元就の領地も重要な地域でした。彼の領地と石高は以下の通りです。

  • 安芸国:毛利家の本拠地で、石高は約40万石。
  • 長門国:海に面しているため、交通の要衝でもありました。石高はおよそ10万石。

参考資料:Wikipedia 毛利元就

島津義久の領地と石高

南九州を治めた島津義久も広大な領地を持っていました。彼の領地とその生産量について見てみましょう。

  • 薩摩国:非常に広大で、生産量も豊富。石高はおよそ50万石。
  • 大隅国:こちらも島津家の重要な領地で、石高はおよそ30万石。

参考資料:Wikipedia 島津義久

国別石高一覧(太閤検地時代)

太閤検地により確定した主要国の石高は以下の通りです。

地域国名石高(万石)主要産物
畿内山城23米・野菜
大和44米・茶
河内24米・綿
東海道尾張57米・味噌
三河29米・大豆
駿河15米・茶
北陸道加賀36米・漆
越後39米・酒

全国総石高
太閤検地による全国総石高は約1,850万石でした。これは江戸時代初期の約2,000万石と比較して、新田開発前の状況を示しています。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)石高

石高の軍事・統治上の意味

石高は単なる農業生産力の指標ではありませんでした。

  1. 兵力の動員数:1万石につき約200人の兵を動員できるとされ、戦力計算の基準に。
  2. 幕府との関係:石高が多いほど幕府に対する軍役・普請などの負担も増加。
  3. 格式の象徴:10万石以上は「大名」とされ、石高は支配者としての地位を保証しました。

おわりに

戦国時代の主要大名とその領地、石高について詳しく見てきました。当時の日本の経済状況や大名の勢力図がよく表れていることがわかります。

石高は現代においても非常に興味深い研究対象であり、当時の社会や文化を理解するための重要な手がかりとなります。これを機に、さらに深い歴史の探求に乗り出してみてください。

※本記事の石高データは複数の史料を参考にしており、研究により数値が変更される可能性があります。

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