徳川家康(とくがわ いえやす)武将データベース

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徳川家康は、三河の松平氏に生まれ、今川氏の人質生活を経て独立した戦国大名です。

織田信長や豊臣秀吉と関係を結びながら勢力を広げ、関ヶ原の戦いに勝利。江戸幕府を開き、将軍職を徳川秀忠に譲った後も政権の基礎づくりを進めました。

武将名

徳川家康(とくがわ いえやす)AIイメージ画像
徳川家康wiki

徳川家康(とくがわ いえやす)

幼名は竹千代。元服後は松平元信、元康と名乗り、永禄6年(1563)に家康へ改名しました。永禄9年(1566)には朝廷の許可を得て、松平から徳川へ改姓したと国立公文書館の展示資料は説明しています。

生没年

天文11年(1542)12月26日~元和2年(1616)4月17日

三河国岡崎城で生まれ、駿河国駿府で死去しました。国立公文書館の年表は、家康の誕生日を天文11年12月26日、没日を元和2年4月17日としています。旧暦で記された日付です。

出身

三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)

父は岡崎城主の松平広忠、母は水野忠政の娘・於大の方です。家康は岡崎城内で生まれました。幼少期には織田氏、続いて今川氏のもとで人質として過ごしました。

主君

家康は、時期によって主従関係や政治的立場が変わりました。

  • 幼少期~永禄3年(1560)ごろ:今川義元
    • 竹千代は今川氏の人質となり、今川氏のもとで元服して元信と名乗りました。桶狭間の戦いで義元が討死した後、家康は岡崎城へ戻り、今川氏から自立しました。
  • 永禄4年(1561)ごろ~天正10年(1582):織田信長と同盟
    • 今川氏との関係を断ち、信長と同盟を結びました。両者は長篠の戦いなどで連携しました。
  • 天正14年(1586)~慶長3年(1598):豊臣秀吉に臣従
    • 秀吉のもとで五大老の一人となり、豊臣政権を支える有力大名として行動しました。
  • 慶長3年(1598)以後:豊臣政権の有力大名、のち江戸幕府の将軍
    • 秀吉の死後、政権内で影響力を強め、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられました。

所属勢力

  • 松平氏・今川氏配下:幼少期から桶狭間の戦い後まで
  • 徳川氏:三河を平定し、徳川へ改姓した永禄9年(1566)以後
  • 豊臣政権下の大名:天正14年(1586)以後
  • 江戸幕府:慶長8年(1603)に征夷大将軍となって幕府を開く

居城

家康の居城・本拠は、勢力の拡大や政権の移動に伴って変わりました。

城家康との関係
岡崎城出生地。桶狭間の戦い後に戻り、三河支配の拠点とした
浜松城元亀元年(1570)に本拠を移し、武田氏と対峙した
駿府城豊臣政権期に築城・整備。慶長12年(1607)以後、晩年の拠点となった
江戸城天正18年(1590)の関東移封後に入城。江戸幕府の中心となった

岡崎城から浜松城、駿府城、江戸城へと拠点を移した経過は、岡崎市観光協会・浜松市などの解説に記されています。

主な合戦

年合戦陣営・役割
永禄3年(1560)桶狭間の戦い今川方として大高城方面にいた。今川義元の戦死後、岡崎へ戻り自立の動きを進めた
元亀元年(1570)姉川の戦い織田信長と連携し、浅井・朝倉連合軍と戦った
元亀3年(1572)三方原の戦い武田信玄軍と戦い、大敗した
天正3年(1575)長篠の戦い織田信長と連合し、武田勝頼軍と戦った
天正12年(1584)小牧・長久手の戦い織田信雄と連合し、羽柴秀吉と対立。長久手では秀吉方の軍勢を破った
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い東軍を率い、石田三成らの西軍と戦って勝利した
慶長19~20年(1614~1615)大坂の陣徳川方を率いて豊臣方と戦い、大坂城を落とした

国立公文書館の年表は、家康の主要な合戦と関ヶ原の勝利を記録しています。小牧・長久手の戦いでは、織田信雄と家康の連合軍が秀吉方と対峙し、長久手で戦いました。

家族

親

  • 父:松平広忠
  • 母:於大の方(水野氏)

於大の方は、竹千代が幼いころに広忠と離別しました。家康は少年期に人質として尾張・駿河で過ごしました。

配偶者

  • 築山殿(瀬名):今川氏との縁を持つ女性。長男・信康、長女・亀姫の母。
  • 朝日姫:豊臣秀吉の妹。家康と秀吉の関係を結び直す政略結婚として嫁いだ。
  • 西郷局(お愛の方):徳川秀忠、松平忠吉の母。
  • 於愛の方(西郷局と同一人物として扱われることが多い):呼称・伝承には資料による違いがある。

子

家康には多くの子がいました。主要な子には、長男の松平信康、次男の結城秀康、三男の徳川秀忠、四男の松平忠吉、九男の徳川義直、十男の徳川頼宣、十一男の徳川頼房などがいます。子の一部は他家へ養子に入り、徳川一門や諸大名家を支えました。

敵対関係

家康の敵対関係は、時期や政治状況によって変わりました。

  • 織田氏:家康の幼少期には敵対勢力。のちに信長と同盟を結んだ。
  • 今川氏:桶狭間の戦い後に自立し、領国をめぐって対立。永禄12年(1569)に今川氏真と和睦した。
  • 武田氏:武田信玄・勝頼と、遠江・三河をめぐって長く争った。三方原の戦いでは敗れ、長篠の戦いでは織田氏と連合して勝利した。
  • 豊臣秀吉:天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで対立。その後、家康は秀吉に臣従した。
  • 石田三成ら西軍:慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敵対した。
  • 豊臣秀頼・淀殿ら:大坂の陣で対立し、慶長20年(1615)に大坂城が落城した。

同盟関係

  • 織田信長:今川氏から自立した後に同盟を結び、武田氏との戦いなどで連携した。家康の長男・信康と信長の娘・徳姫の婚姻も、両家の関係を強める役割を持った。
  • 織田信雄:天正12年(1584)、秀吉と対立した信雄を支援し、小牧・長久手の戦いで連合した。
  • 北条氏:関東・駿河をめぐって関係が変化した。武田氏との対立が深まった時期には、家康が北条氏と連携したこともある。時期を区切らずに一貫した同盟関係として扱うのは適切ではない。
  • 豊臣秀吉:小牧・長久手の戦い後に和睦し、家康は秀吉に臣従した。秀吉の死後は、豊臣政権の有力大名として活動した。

年表

※日付は主に旧暦です。人物の年齢は記載していません。

年出来事
天文11年(1542)三河国岡崎城で誕生。幼名は竹千代
天文16年(1547)ごろ今川氏へ送られる途中で織田方の人質となる
天文18年(1549)織田信広との人質交換で今川氏のもとへ移る
天文24年(1555)今川義元のもとで元服し、松平元信と名乗る
永禄3年(1560)桶狭間の戦い後に岡崎城へ戻り、自立を進める
永禄6年(1563)元康から家康へ改名
永禄9年(1566)三河を平定し、徳川へ改姓
元亀元年(1570)本拠を浜松へ移す
元亀3年(1572)三方原の戦いで武田信玄軍に敗れる
天正3年(1575)長篠の戦いで織田信長と連合し、武田勝頼軍と戦う
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と対立
天正14年(1586)秀吉に臣従
天正18年(1590)関東へ移封され、江戸城に入る
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで東軍を率いて勝利
慶長8年(1603)征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
慶長10年(1605)将軍職を秀忠に譲る
慶長19~20年(1614~1615)大坂の陣で豊臣方を滅ぼす
元和2年(1616)駿府で死去

年表の主要事項は、国立公文書館の「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」関係年表をもとに整理しました。

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参考文献・出典

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